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松本人志のお笑い再論(大幅加筆2校正) [芸術分析]

松本人志のしんぼるを遅ればせながら見ました。

がんばって作っている事は分かりましが、見事におもしろくない。
お金はかけているし、イメージはそれなりに過剰に豊かであるように見えて、まるっきりおもしろくない。
このつまらなさは、すごいもので、理由も良く分かりません。

本人も周りも、松本人志を天才であると信じていて、その神話の中にいますが、あらゆる意味で、天才などというものは無いのです。松本人志に関して言えば、《第6次元 自然領域》の凡人としてしか、彦坂尚嘉の《言語判定法》では見えてきません。キッチュなのですが、それが酸っぱいキッチュであるに過ぎなく見えます。

ネットで探すと、この『しんぼる』の評価は悪いもので、いまさら彦坂が批判を言う必要のあるものではありません。

というわけで、批判ではなくて、彦坂尚嘉的に、つまらない理由を説明をする必要を生じました。

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まず、伝統的な喜劇というのは、彦坂尚嘉の《言語判定法》では《第13次元 喜劇領域》のものです。

《第13次元》というのは、《第3次元 コミュニケーション領域》の倒錯領域にあります。つまりコミュニケーションの変態というのが喜劇の構造なのです。

しかも《第3次元 コミュニケーション領域》の倒錯領域というのは、《第11次元》〜《第20次元》までという多型倒錯をしていて、その中には《第11次元 交通領域》、《第16次元 崩壊領域》というものがあって、《第13次元 喜劇領域》というのは、交通領域と、崩壊領域の間にあるのです。

精神的な交通体験と、精神的な崩壊体験の間に、喜劇はあります。

つまりコミュニケーションが倒錯して、精神の交通と、精神の崩壊の中間点の奇妙な宙吊り状態にあるのが、喜劇の領域なのです。


ところが松本人志のものは《第6次元 自然領域》なのです。これは、重要な事です。つまり松本のお笑いは、実は喜劇ではないと考えられます。喜劇を、《第6次元 自然領域》に投影して落としたイミテーションなのです。

《第6次元》というのは、《自然領域》なのですが、そこは人間の第一次生活世界であって、実質的な生活の現実が展開している領域です。

《第6次元 自然領域》の倒錯領域というのは、《第8次元 信仰領域》です。つまり私たちが当たり前に生活してしるということは、同時に何かを自明にして信じているという宗教的な精神性を倒錯として付随させているのです。

松本人志のお笑いというのは、このような生活性と信仰性の領域にあるのであって、それはコミュニケーションとその倒錯としての喜劇とは違う領域にあるのです。言い換えると、《第6次元 自然領域》から喜劇という《第13次元 喜劇領域》を見て,この模倣をすることで、次元転移を行っているのです。

「喜劇ではない」とすると、喜劇を写した松本のお笑いというのは、何なのか?
彦坂尚嘉が言葉をさがすと「悪ふざけ」と出ます。

「悪ふざけ」というものと「喜劇」というものの違いがどこにあるかは問題ですが、松本人志の世界というのは、実は伝統的な喜劇の系譜ではなくて、それに付随する代用品ではないのか? と私は思ったのです。

つまり100パーセントの本物のオレンジジュースではなくて、その模造品の人工着色のオレンジジュースという色水です。

別の視点で言いますと、『しんぼる』は《想像界》の映画です。《想像界》しかない映画は、万華鏡的なきらびやかさはあるにしろ、なかなか面白さとしてはむずかしいというのが一般的に言えます。
落ちのつまらなさも、松本の人格も《想像界》の《第6次元 自然領域》しかない万華鏡的な限界というところから来ているという風に、彦坂尚嘉には見えます。
つまり億単位のお金を使って作る総合芸術としての映画の監督としては、《想像界》しかない松本人志の人格は総合性を欠いていて、薄っぺらでありすぎるのです。本人も信奉者も、この人格的な薄さを、洗練や天才性と誤解しているのです。

彦坂尚嘉の意見は、保守的というか、オーソドックスなものです。つまり、喜劇やお笑いは、少なくとも《第13次元》を持っていないと無理であるというふうに、多くの分析結果から彦坂尚嘉は考えます。

13次元》を排除した《第6次元 自然領域》のお笑いというのは、新しいとも言えますが、それは基本を欠いた代用品のおもしろさなのです、という風に考えるものです。

代用品に新しい可能性を見るという事は、それはそれで理解できます。文明の展開は、実は代用品の展開なのです。ですから松本のお笑いに意味を見いだす気持ちは、間違いである訳ではないのです。

指摘しているのは、代用品だけでの展開には、限界があるという事です。たとえば本当の性行為の代用品としてハイヒールを愛しても、子供は作れないのです。そういう限界があるのです。松本人志のお笑いはハイヒールなのだと、彦坂尚嘉は結論しました。


瞬間の全人類史 [芸術分析]

平行関係としての《崩壊》は、いつもやってくる。それは《第16次元》で、それをカオスというとすると、どこかで間違える。《第16次元 崩壊領域》は、カオスではなくて、ただ単に壊れたという事の終局点なのです。それは人々の心を引きつける対象aであるのですが、それは壊れて失われたというマイナスの魅力なのです。人々は引きつけられるが故に、そこに意味を見るのですが、意味は無いのです。その代表的な作品は、ピカソの分析的キュビズムの作品。
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