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おのずから/サントーム/やさしさ [人間を観察する]

 緒方勇人さんからコメントをいただいています。
見落としたのと、さらに内容が真面目なので、お返事を書くのが遅れてしまって、申し訳ありません。

彦坂尚嘉様

 ラカンの謂うサントームを言い換えるものとして「やさしさ」がでてきたこと、興味深く思います。

 ひとびとの生活する日本という場所において、彦坂尚嘉の謂う《第六次元 自然領域》のみの単層的、あるいは《第一次元 社会理性領域》から《第六次元》までを含んだ複層的無人格の人間が大勢を占めていることは、経験にもとづく状況認識にとどまらず、日本思想の観点からある程度うらをとれることのように思います。

 もう亡くなられた倫理学者で和辻哲郎のお弟子さんであった相良亨の晩年の仕事に、「おのずから」形而上学という、あまり知られてはいないけれどもたいへんな射程をもった論考があります。

「このたびはめでたく結婚するはこびとなりました」「~のように思われる」などといった日常的な表現を省みると、わたくしたち日本人の言語表現には、西欧流の確固とした個人ないし主体としての一人称(person人格)を欠いたあらわし方が多くあり、また自然でもあることがわかります。おのずとそうなった、そう感じられたのだ、と。そうした「おのずから」の発想の急所は、わたくしたちを巻き込むかたちで生じた出来事に対し分析の眼を向けられないことにあります。だから、とかく事実究明ができない、物事の帰責がうやむやになりやすい。

 こうした日本特有の性質は、かつて丸山真男が「無責任の体系」と呼んだところのものにほかなりませんが、また同時に、「つきつぎとなりゆくいきほい」という言葉でわたくしたちの歴史意識の古層に見出したものであることを、先の相良や世間研究の阿部謹也やがそろって注目していることであります。相良の晩年の仕事は、この丸山の慧眼にヒントを得ながら日本の思想家にみられる「おのずから」の系譜をたどったものと云えます。

 日本の世間をなしている彦坂理論で謂う単層的ないし複層的無人格の多数が決定的に欠いているのは、ひとえにヨーロッパ一流の苛烈な批判精神でしょう。日本思想に脈々と流れている「おのずから」とは、まさしくこれとまっこうから衝突するものなのですから。この事態は日本における哲学の不毛を語ってもおります。

「やさしい」という日本語をその語源にまで遡ると「痩す」という語にゆきつくそうです。若さゆえにまだわたくしは「あきらめ」られていませんが、哲学をする者として、ソクラテスめいた「やさしさ」をもって生きることを日々切々と感じつつ実践におもむいております。 
by 緒方勇人 (2011-06-29 05:35)  


緒方勇人様


すばらしいコメントありがとうございます。お返事遅れてすみません。ご指摘の「おのずから」というのは、ご指摘の様に、日本の古層にあるもので古事記にある世界創造の神話にも見られたものであると記憶しています。

私自身は、日本文化の特徴や構造を無視する者ではありませんが、しかし思考の基準は、全人類という範囲で考える立場をとっています。つまり《近代》にあった国民国家という枠組みの外に出て、思考すべきであると考えるのです。

日本の政治を含めた権力構造の甘さというのは事実ですが、このことは日本の文化の構造が、いわゆる古代文明の伝統を持たない地域の性格であって、根底に原始性を温存していて、これを是正や構造改革はなし得ないものであると考えます。

あきらめであるとは思いません。構造的に無理であると考えたいのです。

こういう原始性を抱えた構造は、しかし日本だけではないのであって、ローマ帝国や中華古代帝国等々の古代文明の外部世界には、今日まで続いている性格です。分かりやすい所ではロシアです。

つまり地球規模の世界には、2つの文化があるのです。一つは古代文明の人工性の基盤に基礎づけられた文化。もう一つは、原始の野蛮性を基盤として継続している文化。

この2つの文化が確執を繰り返す事で、世界は複雑な様相になっています。


重要なことは、この2つの文化の外部に出る精神ではないでしょうか。

古代文明の人工性の基盤に基礎づけられた文化というのは、アメリアでも中国でもそうですが、外部侵略を繰り返していないと成立出来ない性格を持っています。古代帝国の伝統というのは、今日でも帝国主義の形態において作動し続けるのです。

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相良 亨(さがら とおる)のことは知りませんでしたが、日本文化の中に美と倫理を見出したひとなのですね。3.11以降の今日の日本では、再び伝統的な家族観や倫理観への回帰が強く見られますから、再読する意味はあるのだろうと思います。

ただ、前近代の日本に、日本的なる心を見る事が間違っているとは思いませんが、しかし明治維新で日本の前近代の文化は壊れます。

壊れたと言っても、彦坂尚嘉が言う場合には、水の比喩で、固体から液体に溶けて行ったように、様態変化が起きたと考えます。

「日本の心」といったものが、固体から液体に様態変化をして、さらには気体になて、今日ではプラズマ状態にまでなっていると考えるのです。

様態変化が起きる原因は、温度が上がって来たからです。
固体である氷が溶けて、液体の水になって、河川のように速いスピードで流れる時代は、近代だったのですが、これはまだ理解しやすい時代でした。

しかし液体が沸騰して水蒸気になって、文化というものが気象化すると、問題が見えにくい時代になります。歴史も明確には見えなくなります。

さらに今日では、水分子が、高温化によって電離して、陽子イオンと電子になって自由に飛びまわる状態になっています。この様態変化は、従来の常識を完全に壊しているので、恐るべき変化に社会は見舞われているのです。

こうした様態変化も、実は「おのずから」であって、誰かが意図して設計したものではないのです。

by ヒコジイ (2011-07-10 08:31)  

快楽原則から苦痛原則へ [人間を観察する]

小泉晋弥様

On 2011/06/27, at 9:40, Shinya KOIZUMI wrote:

> 茨城大学の小泉晋弥です。
> 下記の壁画計画に感慨深いものがあります。
> 彦坂さんが,関東大震災後に,バッラク装飾社を立ち上げた村山知義とだぶって見えます。
> 90年前の関東大震災で,芸術の社会的役割についての意識が大きく変わったのと同様のことが,これから起こるという予感がします。

> 日本の21世紀芸術は2011年から始まったと後世記録されることになろうかと思います。

2011年の3.11以降に、日本の21世紀美術が始まるというご指摘は、
魅力のあるものです。

ここ20年は、根拠無き熱狂が吹き荒れて、
快楽原則だけでの美術がもてはやされてきました。

しかし3.11と福島原発事故、そして世界の政治経済状況の不安定化の中で、
現実は苦痛原則に支配される様になってきました。

もともとの人間の生活は、寒さや貧困に苦しめられて苦痛原則に支配されてきました。
ところが物質文明になって、生活は快適さを増して、
人間は快楽原則だけで人格を作る様になって、万能感をもつ自己中毒の人ばかりが増殖して来たのです。

3.11以降の世界情勢は、安い電力を消費する快楽原則の世界の終焉ではないでしょうか。
人間の世界は、再び苦痛原則が支配する様になって来るのではないでしょうか。

宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が予言した様に、放射能汚染が広がる腐界との共存を余儀なくされて、
苦痛原則と快楽原則のバランスが追求される中庸原則の時代へと移行して行く様に思えます。
そういう中で、現代アートもまた変貌が始まるでしょう。
そう考えたいものです。


彦坂尚嘉

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It君と、なんやかんやで、対話が続いて来ていた。It君の果敢な学習行動が面白かったからです。

そういう中で、私の中で理論化されて来たのが、人間は多様な人々がいるけれども、その多様性を圧縮して整理すると、3種類の人間がいるということです。

まず第一種類が、《第6次元 自然領域》だけの単層の人々が一番多くいるということです。この人々は快楽原則だけで生きています。快楽原則だけの人々は、自然鑑賞が好きです。昆虫にしろ、観葉植物にしろ、これらを鑑賞するのには、快楽原則だけでできるのです。

この人たちのための美術作品というのは、世間体アート、《第6次元 自然領域》、実体的、快楽原則アートであるということです。

社会通念的にアートであると認識されるものがなんであるのかというのも、時代によって変わって行きますが、その中でしか認識しないというのが、この《第6次元 自然領域》の人々です。今日ですと、これが現代アートであるという、何となくの常識があります。その範囲内でのゲームが、日本の現代アート界=Jアートの世界です。そこにはアヴァンギャルドの風化形態もたくさんあります。これは歴史的な体積の中で生まれて来ていて、狭い美的趣味性を帯びて来ています。

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次に《第1次元 社会的理性領域》の人々で、この人々の性格は2層性でできています。《第6次元 自然領域》とこれを抑圧する《第1次元 社会的理性領域》性です。

分かりやすく言うと、性欲は強くて欲望はあるのだけれども、それを社会性を意識して強く抑圧しているというような性格の人物です。批判意識は強いのですが、それはあくまでも社会性を前提にしたもので、社会性を形成し続けようと言う強い強迫神経症があります。赤信号であれば、自動車が一台もこなくても、ジーと待って、青信号になって横断歩道を渡るといった人物です。

このような人には、苦痛原則があって、これによって苦痛に耐えて、社会性が作られています。受験戦争にも強いタイプなので、勉強はできて、学歴も高学歴です。就職も、大手の大企業に入っている人々です。

この《第1次元 社会的理性領域》に特化した表現が、商業ロックの領域ですが、美術にもこの傾向はあります。現代美術/現代アートが、社会の中で認知されて行くと、このような《第1次元 社会的理性領域》に特化した現代美術が主流を形成し、多くの人々が愛する様になって来ています。

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まえにも書きましたが、この《第6次元 自然領域》と、もう一つの《第1次元 社会的理性領域》の人々という2種類の人間で社会が構成されています。この2種類の人々には、狭い意味での人格がありません。人格がない場合には、外国との外交交渉ができないという欠点があります。

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そして第3の人間である《超次元》〜《第6400次元》の人々が排除されて社会というものが構成されているのが、日本社会の特徴です。

普通の意味での日本的な美意識というのは、過去にあった《超次元》から《第6400次元》のすぐれた美術品を、排除して日本趣味を造り出しています。

つまり事実としての日本美術の豊かさというものと、日本趣味というものの狭さは、乖離しているのです。



人格の有無について [人間を観察する]

人間の性格の中に、人格がある人と、無い人がいるという、観察結果は、なかなかむずかしい問題を突きつけます。

首相の菅直人は、彦坂尚嘉の言語判定法では《第6次元 自然領域》の人で、快楽原則だけで動いている人で、人格が無いのです。

今日の政局に見られる菅直人の行動は、人格の無い人物の行動として、極めて興味深いものと言えます。人格の無い《第6次元 自然領域》の人が、国家権力を握って、しかも権力に執着して行動すると、どうなるのか? という事例として面白いのです。

菅直人をめぐるドタバタの中で、日本の政治構造が解体して行く様に見えます。被害が大きいにしても、もはや政治を解体させて行く以外に道は無いのかもしれません。あまり嘆かずに、「やさしく」観察しているのが良い様に思います。とにかく、どうしようもない崩壊過程の中を、私たちは生きて行く以外にはないのです。

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日本社会には、《第6次元 自然領域》だけしかなくて、快楽原則だけで行きている人が、多数を占めています。

《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自然領域》まである人物は、快楽原則と、苦痛原則の二重性で生きています。この《第1次元 社会的理性領域》の人物にも、人格はありません。

人格の有る人物というのは、《超次元》から多層の構造を持っている人で、快楽原則、苦痛原則、さらにこの中道の原則をもって、生きている人物です。この人格を持っている人物というのは、人数的には減っています。

日本社会というものは、《第6次元 自然領域》の多数者と、《第1次元 社会的理性領域》〜《第6次元 自然領域》まである指導者の二重構造で形成されています。

日本社会の特徴は、《超次元》まである人格者を、社会的には排除して重要な役職につけないという構造で形成しています。したがって、人格無き社会が作られていて、外交交渉等ができないのです。

私は、この日本社会の構造はかなり昔からのもので、変更ができない様に見えます。その意味で、「あきらめ」と「やさしさ」が必要なのです。かなり異様な、非常識な社会であるのですが、今日、それがさらに壊れて、もっとひどい状態に退化していく状況ですから、ただひたすら、事態を観察して行こうというのが、私の立場です。

《第6次元 自然領域》の人は原発ファンダメンタリスト [人間を観察する]

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中部電力社長 水野明久氏

中部電力社長が、各新聞のインタビューに応じています。話している事は浜岡原発を停止した事態の中での経営の悪化と、その打開策を多様な内容であって、その報道の仕方は各新聞で違います。

その中で朝日新聞の報道は、焦点を明確にしていて、果たしてこれで良いのか? という疑問はありますが、「福島と同じ事故起きぬ」「原子力の重要性は不変」という見出しが示すように、中部電力社長が《原発ファンダメンタリスト》であることをあからさまに書いています。

人間存在は現実には複雑で、多様であって、そして現実の社会も実に複雑怪奇なのです。だからこそ、単純に物事を把握できる物差しとしての模型的な把握が重要です。

一昨日、昨日と私は、原発事故や3.11を巡る人々の反応から、社会というものの構造を仮説的にとらえることをして来ています。しかし、こういう作業は、もともと私はもっと昔から格闘して来たことです。社会とは何か? そして人間とは何か? 共同体とはどのように変貌し続けて来ているのか? こういう難問と格闘しないでは、実は芸術というものの構造を明らかにする事は出来ないと彦坂尚嘉は考えるのです。

人間は、公的な面と、私的な面の二重性を生きています。
この二重性が全ての複雑な問題と、そして芸術構造を造り出していると、私は考えます。

その中で3種類の人間がいるという単純化を昨日しました。データーに使ったのは原発を推進した東京大学の出身者のインタビュー記事でした。

人間を三種類としてみる見方は、実は昔からあって、代表的なのは阿修羅像が3種類の顔を持つ事です。正面の顔は、《超次元》の顔です。そして左右に《第1次元 社会的理性領域》と《第6次元 自然領域》の顔があります。

この事をふまえて、人間社会は《第6次元 自然領域》の人間と、《第1次元 社会的理性領域》の人間の二重性で出来ている。そして《超次元》の人物を排除することで成立しているとしました。

《第6次元 自然領域》の人間はフロイトの言う快楽原則で生きていると考えられます。
直接的な欲望の充足を求めて生きているこのタイプの人間には、彦坂尚嘉の言語判定法で見る限りは人格はないのです。昆虫的な存在で、本能的な盲目性で作動しているマシーンなのです。今日取り上げた中部電力社長の顔も、彦坂尚嘉の『アートの格付け』で見る限り《第6次元 自然領域》の人物です。この中部電力社長は、福島原発事故を見てもなお、停止した浜岡原発を再開しようとしています。原子力発電の必要性は不変であるという主張なのです。分かりやすくレッテルを貼れば、原発原理主義者なのです。批判に直面している色々な信仰や信念に固執する傾向を意味する語として「原理主義(ファンダメンタリズム)」という言葉が、今日ではつかわれますので、「原発ファンダメンタリスト」というレッテルの貼り方は有り得るのです。彼らは原子力発電が必要で、原発は安全であるという、原発システムを理想化した理念的な原理や原則を重視して、その信仰的とも言える内容を繰り返しています。

つまり、昨日のこのブログの記事から言うと、《第6次元 自然領域》の人は、福島原発事故の見てもなお、この体験を無視して、原発の必要性を主張し続ける「原発ファンダメンタリスト」なのです。

このことを拡大して《第6次元 自然領域》の人々は、原理主義者(ファンダメンタリスト)であると仮説しておきます。

今までも多くの《第6次元 自然領域》の人々を見てきましたが、何かの価値を信じている単純性を持った教条主義者=原理主義者(ファンダメンタリストであると規定する事ができるように思います。

現在の首相の菅直人も、首相の位置に固執し続けるのも、単純な信念を盲目的に一直線に追求するもので、こうした性格は《第6次元 自然領域》の人々に多く見られる事です。そこには反省性は無いし、迷いがありません。盲目的で、単層的で、教条的なのです。こういう《第6次元 自然領域》の人々は、社会の肉体部分とも言うべき大多数を形成しています。

《第6次元 自然領域》の多数者の、この単純さと単層性を、「教条主義者=原理主義者(ファンダメンタリスト」であると認識する事は、重要だと思います。この教条主義性と単純性が、社会の根幹を形成しています。それは鈍くて、頭が悪く、昆虫的なマシーンなのです。人間機械であり、社会機械です。

《第6次元 自然領域》の人々がもつこのような昆虫的機械性を、私は、一方的に否定的に語っているのではないのです。このような盲目的昆虫性が、人間存在の三分の一を形成しているという事実を、事実として認識する事が重要であると言っているのです。

菅直人のような昆虫をどのようにすれば倒せるのか?

昆虫を倒すのは、理屈や知的な言論ではないという事です。言論は、この場合無力です。殺虫剤が必要なのです。そういう仮借なき暴力性しか倒し得ないものが、《第6次元 自然領域》の人々の強さなのです。したがって、織田信長が一向一揆や比叡山を殲滅したような暴力的殺戮によって排除するしか無いのですが、それが出来なければ、共存して行くしか無いのです。暴力の反転としての共存路線。それは福島原発事故と100年200年と共存していくのに似ています。

つまり、《第6次元 自然領域》の人々と、共存をしていくしかないのです。そこでは言論は無意味で無力です。彼らを説得はできません。説得できないし、コミュニケーションの出来ない人々と共存をして行くということが重要なのです。しかも暴力も使えません。その方法がサントームであると思います。ジャック・ラカン晩年のサントームという方法は、この不可能をつなぐ方法なのです。ではこの不可能をつなぐサントームとは何か? 「やさしさ」 です。

3種類の人間と社会構成の模型 [人間を観察する]

人間は一種類ではないのではないのか?

多くの人には人格は無いのではないのか?

このような疑問に、私自身は苦しめられてきました。それは人間関係や社会関係がうまくいかないという齟齬の中での苦しみなのです。

その解りやすい例が、今回の福島原発事故をめぐって起きました。多くの人がチュエルノブイリ原発事故や、スリーマイル原発事故の記憶を持っていないで、その記憶の上で考える事や行動する事をしないのです。

人類史の中で、大きな破綻であるこの2つの事故から学ぶ事もしない日本人の大多数というのは、まともなものではありません。

さて、昨日の毎日新聞は、原子力発電を開発して来た3人の東大出身者の話を書いています。顔写真もあります。後にまるごと添付しましたので、それを見てください。

この原発を推進した3人が面白いと思ったのは、彦坂尚嘉の『アートの格付け』で3タイプの人が出ていて、3人の原子力に対する反応とこの『アートの格付け』が面白い結果を示していた事です。

《第1次元 社会的理性領域》の人と、《第6次元 自然領域》の人と、《超次元》の人の3人がいます。

《第1次元 社会的理性領域》の人は、「人を幸せにすると思っていた原子力が人を不幸にしている。むなしい」と言っています。

《第6次元 自然領域》の人は、「未来永劫(えいごう)ではないが、しばらく原子力は必要」と考えています。

《超次元》の人は、「原子力と人間は共存できない」と判断しています。この《超次元》の人の意見は、日本社会から排除されたのです。

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普通の意味で、《第6次元 自然領域》の人の意見はもっとも常識的で理性的であるように見えます。このタイプの人が多数派を占めて、そして原子力発電を進めてきました。そして今回の大事故になったのですが、それでもまだこりずに、原発の必要性を言います。しかもそれが理性的に見えるのです。

昨日のブログに短くですが私は「記憶を持たない人々」について書きましたが、この《第6次元 自然領域》の人々というのは、実は本質的な意味では記憶が積み重なって行かないのです。目先だけの表皮的な判断で生きています。昆虫であると考えられます。つまり表面的には理性的に見えるのですが、しかし本質的な認識には至りません。
私自身が一番苦しめられて来たタイプの人は、このような《第6次元 自然領域》の人々です。

このような人々が、現実の人間社会を盲目的に押し進めるのです。そして今回の福島原発事故のような亡国の事態に至る。しかしこの事故が、取り返しのつかない大きなものであって、今後も100年単位で、膨大な経費を無意味に消費し続ける事を理解しないのです。そして100万から140万人の規模の死者を生み出して行くという日本民族の衰弱に至るであろう事を理解しません。この人々の至る道が、集団自殺なのです。ネズミが大量に海に飛び込んで行くような集団自殺です。

この《第6次元 自然領域》の人々の表面的な理性性と、楽天性と、愚かさこそが、実は人間という動物の本体なのです。解りやすく言えば人間社会の中の肉体の部分ですね。

それに対して《第1次元 社会的理性領域》の人物は、「人を幸せにすると思っていた原子力が人を不幸にしている。むなしい」と言っています。日本社会の中での、実はこの《第1次元 社会的理性領域》の人々が、リーダーとして上手く作動して行かないのです。それは何故なのだろうか?

これは多くの人の同意を得られない考え方で、口にするのもまずい考えですが、この《第1次元 社会的理性領域》の人物でも、実は彦坂尚嘉の芸術分析の眼で見ると、人格が無い人物です。

人格が無いという言い方は、まずい言い方なのですが、人格というものは誰にでもあるものではないようなのです。

《第6次元 自然領域》の人々にも人格はありません。この毎日新聞の記事と写真で見る限り、彦坂尚嘉の《言語判定法》という手法で見ると、《第1次元 社会的理性領域》の人も《第6次元 自然領域》の人々も人格が無いという所に、人間社会の深い秘密があるようです。

これは言ってはいけない秘密なのです。

つまりもう一人の《超次元》の人物だけが、人格を持っていて、この人だけが原発の危険性を理解して、警告を発している。その為に、原子力を推進する人々から排除されて来ている。

《超次元》の人は、物事の本質が見えるのですが、この本質の話をすると、日本社会からは排除されていってしまう。

人間の人格とは何か?
このような本質論をきちんとやるのは作業的にはたいへんです。今回の毎日新聞の記事に即して言えば、原子力の危険性の本質を認識することが出来るような人間にだけ人格があります。もっと一般的に言えば、危険を認識できる人だけに、人格があるのです。《危険》というものを正面から見つめられるという事が大切です。

しかし人間社会というものは、実は《第6次元 自然領域》と《第1次元 社会的理性領域》の人々によって構成されていて、そこには人格はないのです。つまり昆虫の社会のようなものです。蟻や蜂の巣のようなものであって、根本として盲目性で作動している。

もちろん、このような人格の有無を言い立てる事は社会的にはまずいのですが、何故にまずいかと言えば、実は人格の無い人間が多数だからです。

人格を形成するという事自体が苦痛を伴う事であって、それは簡単にはできないのです。快楽原則ということをフロイトは言いましたが、人格を形成する事は苦痛を行きて行かなければ不可能なのです。つまり苦痛原則と人格形成が深く結びついているのです。


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情報出典:毎日新聞 2011年6月16日(木)朝刊 17面

ザ・特集:原発とともに歴史刻む、東大工学部原子力工学科 1期生の胸中は

東京大学のシンボル・安田講堂。東大はこの国の「原子力村」を担う人材を多く輩出してきた=平野幸治撮影
東京大学のシンボル・安田講堂。東大はこの国の「原子力村」を担う人材を多く輩出してきた=平野幸治撮影

 東京大学工学部原子力工学科--。半世紀前に産声をあげたこの学科は、日本の原子力発電の拡大とともに歩み、今も同学部システム創成学科環境・エネルギーシステムコースとして歴史を刻んでいる。福島第1原発事故後、1期生たちの胸には何が去来しているのだろうか。訪ねてみた。【宍戸護、顔写真も】

 ◇「人を幸せにすると思っていた原子力が人を不幸にしている。むなしい」--東大名誉教授・山脇道夫さん

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 ◇「しばらく原子力は必要。情報をきちんと出し正しく評価することが大事」--IAEA元職員・小西俊雄さん

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 ◇「放射線防護学専攻し怖さ実感。やはり原子力と人間は共存できない」--立命館大名誉教授・安斎育郎さん


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 白髪交じりの70歳前後の男性7人が掘りごたつ風のテーブルを囲んだ。4月15日夜、東京・新橋の居酒屋で開かれた東大工学部原子力工学科1期生の同期会。誰とはなしに福島第1原発事故の話になった。東大名誉教授の山脇道夫さん(70)は「津波対策を声高にいうべきだった」と悔やんだ。被災地を思い断酒している者もいれば、「支援のために」と東北の日本酒を飲む者も。

 1期生は1962年から同学科を専攻した15人(学科創設は60年)のほとんどが長年、原子力畑を歩み、元科学技術庁事務次官の石田寛人さん、元日本原子力学会会長の斎藤伸三さんもいる。うち2人は既に亡くなっている。

 

 

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東大名誉教授・山脇道夫さん
東大名誉教授・山脇道夫さん

 広島市に生まれた山脇さんは4歳の時、「ピカドン」を経験した。自宅は爆心地から約6キロ。当時の記憶は脳裏に焼き付いている。社団法人・原子力産業協会が昨年出版した本に山脇さんはこう書いた。<突然閃光(せんこう)が部屋中を包み、しばらくして大きな爆発音とともに強風が襲ってきた。強い衝撃が感じられ、障子や襖(ふすま)、縁側の板敷などが吹き飛ばされた……>

 多くの人の命を奪った悪魔の兵器、そして近未来的なすごいもの--原子力は二つの印象を子供の心に植え付けた。高校時代、市内で開かれた「原子力平和利用ミニ博覧会」に出かけ、原子力を使って電気を起こす仕組みのパネルや展示物を見た。「原子力を平和的に使って人を幸福にしたい。米国を見返したい」と思うようになったという。

 60年に東大入学。2年のときに原子力工学科が1期生を募集。めぐり合わせを感じ、迷わず進んだ。東大で助手、助教授、教授と歩み、原子力に使う材料や燃料、核融合を研究してきた。

 福島第1原発の事故。山脇さんは「人を幸せにすると思っていた原子力が人を不幸にしている。無念を通り越し、むなしさを感じます」と語り、こう続けた。「それでも人は、科学技術は今度の事故を乗り越えて原子力をコントロールしなければいけない」

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IAEA元職員・小西俊雄さん
IAEA元職員・小西俊雄さん

 「戦後の貧しい時代、腹をすかせて、電気も満足にない、富山市のあばら家に雪が吹きこむ生活も体験していたから、エネルギーが重要だと思ったんです。あるかないかよく分からないところから新しいエネルギーを作るのはおもしろいなあって」

 国際原子力機関(IAEA)元職員の小西俊雄さん(70)は原子力の道を選んだ理由をこう語る。放射性物質については「理屈の上ではコントロールできると思った」と振り返る。

 

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 東大大学院修了後、日立製作所に入社。高速増殖原型炉もんじゅの設計から建設まで30年近く携わった。もんじゅは原発から生み出されるプルトニウムが燃料。使った以上の燃料を生み出すため「夢の原子炉」とも言われ、2050年の実用化を目指している。

 「ただ」と小西さんは苦笑する。「僕の頭の中では、1990年くらいには実用化しているはずだったんですがね……」

 55歳の時にIAEAに採用され、オーストリアの首都ウィーンで7年間過ごした。滞在中の99年、核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」(茨城県)の臨界事故があり、後日、ある雑誌への寄稿文にこう書いた。<『完全な安全』は存在しない。必要なのは『頼れる技術』だと思っている。(略)接した十指に近い専門家は全て、『事故は起きるもの、起きたら民衆に話す、そして改善する、その積み上げで信頼を築く』姿勢を語った……>

 小西さんは「原発を推進するうちに『事故は起きないはず』になり、やがて『はず』も抜け落ちてしまったのではないか」と語る。ただ、今すぐ全廃に向かうことには否定的だ。「未来永劫(えいごう)ではないが、しばらく原子力は必要。自然に左右される太陽光や風力では安定した電力にならない。情報をきちんと出し、何が起きたのか正しく評価する。そこが大事なのです」

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立命館大名誉教授・安斎育郎さん
立命館大名誉教授・安斎育郎さん

 1期生の中でただ一人、「反原発」のスタンスで長年、発言してきたのは、立命館大学名誉教授の安斎育郎さん(71)だ。記者はJR京都駅近くのマンションの一室を訪ねた。安斎さんは「学生時代の写真が残っていたんだ」と、テーブルに学生時代の写真数枚を広げた。数人の仲間と一緒に並ぶ黒ぶち眼鏡の青年がそこにいた。意志の強そうな顔をしていた。

 

 

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 最初から原子力を否定していたわけではない。「目新しい学科だし、時代の最先端という感じもした」。専門は放射線から身を守る放射線防護学。安斎さんは学生時代のある実験を語った。「ネズミに多量の放射線を浴びさせて観察する。ネズミは数時間かけて、手足をけいれんさせながら死んでいった。見た目は変わりなくても、解剖すると臓器が大きくなっていたり……衝撃的でした。人類はこんな危険なものを手なずけなくてはいけないのかと」。放射線防護に関する論文を相次いで発表し、69年には東大医学部の助手になった。

人の姿のない田園地帯の奥に見える福島第1原発の排気筒(上部が水色の塔)=福島県大熊町で2011年6月4日午後1時42分、川田雅浩撮影
人の姿のない田園地帯の奥に見える福島第1原発の排気筒(上部が水色の塔)=福島県大熊町で2011年6月4日午後1時42分、川田雅浩撮影

 国の原子力政策についても疑問を持つようになった。「十分な安全が確保されていないのに原発計画を推し進めている」と。講演会などで国を批判したところ、研究室では無視されるようになった。後日、研究室の一人が「安斎を干せと指示された」とささやいてくれた。電力会社から研修に来た医師は、安斎さんの隣の席で数年過ごした後、「安斎さんを偵察していた」と打ち明けた。原発推進派からは海外留学の誘いも受けた。体のいい厄介払いだと思った。

 忘れられないエピソードがある。73年9月、福島第2原発1号機の設置をめぐる福島市の公聴会で、原発賛成派の地元婦人が、高校野球で広島県代表が活躍した例を挙げてこう発言した。「(放射能で汚染されたはずの)広島さえ子供が元気に育っているから、放射能は恐れるに足りない」。結局、東大で17年間助手を務め、立命館大に教授として移った。

 福島は、両親の出身地で戦中過ごした疎開先でもある。4月に浪江町を訪れた安斎さんは言う。「菜の花が美しく咲き、桜が咲き乱れるところなのに誰もいない。透明な怖さが沈殿しているように見えました。やはり原子力と人間は共存できないと思います」

 記者は他の1期生数人とも電話で話した。誰もが何かしらの虚脱感を抱きながら、人生をかけた原子力の意味を自問しているように思えた。

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記憶を持たない人々 [人間を観察する]

追いまくられていて、ブログが書けなくなっていてすみません。
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3.11のモニュメントとして、被災地の壊れたビルを保存しようという企画が進んでいる。

それに対して、反対する人々がいる。残っていると忘れられないというのだ。早く忘れたいという。こういう人々が日本的であると今日では言うのだが、実際にこのような記憶を持たない人々がたくさんいる。

マルクスは? [人間を観察する]

人間の顔を、一枚の絵画として、《言語判定法》で観察するという私の方法は、非常に評判が悪くて、今までもこのブログでもおしかりを受けています。

にもかかわらず、私にとっては有効性があって、たとえばカール・マルクスの顔を分析してみます。

548px-Karl_Marx.jpg

karl-marx0.jpg

彦坂尚嘉責任による
[カールマルクスの顔]の芸術分析


《想像界》の眼で《第1〜7次元》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《第1〜7次元》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《第1〜7次元》の《真性の人格》


《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な人格。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現。


《シリアス人格》の人。《気晴らし人格》が無い。
《ハイアート的人格》で、《ローアート的人格》が無い。
シニフィエ的人格で、シニフィアン的人格が無い。
理性脳主導の人格で、と原始脳主導の人格が無い。

《透視人格》である。しかし《原始性格》ではない。
【A級人格】である。しかし【B級人格】性は無い。

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体の人格》《人格の形骸》《人格の炎上》《人格の崩壊》の全概念梯子が有る。

《シンボル的人格》《イラストレーション的人格》《キッチュ人格》《デザイン人格》の概念梯子が無い。

人格者ではあるが、しかしキッチュ性格の同時表示は無い。

人格空間の大きさが《グローバル》である。

《対話》《驚愕》《瞑想》の省察性がある。

《愛玩》《信仰》の省察性が無い。

情報量が100である。
クリエイティヴである。

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これで他の人物、たとえばエンゲルスや、フォイエルバッハ、ヘーゲルと比較していくと面白いのですが、比較すると、また怒られそうです。
今日は止めておきます。
おいおい考えましょう。




ブライアン・グリーン [人間を観察する]

”The Elegant Univers”, ”The fabric Of The Cosmos ” の著者で、超弦理論・M理論に深く貢献している科学者でもある Brian Greene が、その新しい著作 ”The Hidden Reality" のなかで、完全にスペキュラティブな領域に入り込んでいっている現在の物理学が、その存在の前提となっている数学自体の根拠を問いだしているようすが描かれています。前二作は日本でも訳されて出ていますので、この新著もしばらくすると出ると思います。大変に刺激的です。 by 瀬越義満 (2011-04-29 10:30)

人格の無い人はいるのか? [人間を観察する]

人間関係に苦しむ、というのは誰にでもあることと思います。

私自身は、多くの場合、彦坂が悪い人で、だからトラブルになったという結論に持ち込まれるのですが、どうしても、そうは思えないところがあります。

具体的にくどくどしく書いても汚い話なのでしたくありません。その結論としては、一つは空間の小さな人とは、問題を起こすという事です。
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