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あたらしいものを始める事の困難さ [コメント欄へのお答え]

彦坂さんは面白い事を考える事ができる知恵と、それをもの凄い早さで実践する行動力があるので毎回驚かされます。いつも先を越されている感じで悔しいですよ(笑)

by negaDEATH(a.k.a 笹山直規) (2011-04-19 13:38)  

評価していただいて恐縮ですが、
あたらしいものを始める事は、私でも、と言うか,私には、やはり困難です。それでもチャレンジして行かなければならないのは、時代そのものの変化の早さです。

福島原発事故は、日本の歴史の構造を明らかにした画期的なものでした。これについては改めて論じたいですが、このような変動期にどのように考えるのか? この問題が重要です。

あまり面白くない話で恐縮なのですが、東日本大地震の直後に、何人からか、頭がフリーズしてしまって、しばらく落ち着くまで考えられないと言う言葉を聞きました。

それも普通の凡人と言うのではなくて、それなりに状況を作ってきていたジャーナリストの人が入っていました。

システムがあって、自分の社会的な位置と権力がある間は思考が動く人でも、今回のような未曾有の危機状態で、従来の思考パターンが使えないと、頭が停止してしまうのです。

ここで話が飛躍しますが、人間の意識は、実は時代によって、様態が変わるというか、動きが変わるのです。そのことは音楽を聴いていると分かりやすいのですが、近代の意識と言うのは、意識の流れを追う事に集中されて来ています。

つまり川のように水が流れる意識の流れの自覚と言うのは、近代に顕著なパターンなのです。

情報化社会になると、このような意識の流れは蒸発してしまって、分子運動になります。それは鏡の中に映ったホコリのような小さな分子のランダムな激しい分子運動なのです。

これを自分の精神に課して行くこと。
つまり仮想空間で分裂して、小さな粒子としてバラバラに拡散して、しかも早いスピードの動く運動をとり得るのかが問題なのです。軽薄短小の追求は、日本でもされて、はや、20年も立っているのですが、私自身も、まったく不十分です。


同じような内容の記事を10分ほどで走り書きしたものを、下記にアップしています。見ていただければ幸いです。


批判に答えて [コメント欄へのお答え]

沢山のご批判を、前回のブログのコメント欄にいただいています。
そのお答えを、長く書いたのでご紹介します。

瀬越義満 様

お怒り、失望のお気持ちは、良く分かります。ご不快な思いをさせた事は、申し訳なく、それに関しては深く謝罪致します。

今回のこの文章は、6400次元を発見するプロセスを書こうとして、それを完全にリアルに経緯を説明すると、冗漫になるので、略して書いたのです。

略して書いたのが良くなかったとは思います。ですから、吉本隆明を批判するのを目的として書いたものではありません。しかし吉本の顔を取り上げたことは、実は、私の個人の思いの中では深い根拠があります。私自身が吉本隆明を数多く読んで来た全共闘世代のアーティストであったからです。

日本に吉本隆明を高く評価する信者は多いのです。同様に小林秀雄をすごい思想家と考える人々もいます。これらの人々は、実は他の思想家をそれほどには読んでいないのです。井の中の蛙というか、閉じた中で読んでいるのです。

私自身も吉本隆明を非常に長期に読んで来ていて、「マチウ書試論」から、しかしその前に『擬制の終焉』がたぶん最初であったでしょうか。なつかしいですね。

『共同幻想論』は、1968年刊行で、私が多摩美術大学の2年生の時に読んでいます。現在の吉本への懐疑は、この著作への批判があります。

私の世代ですと、1980年代に入っての『マス・イメージ論』で、吉本に失望して離れていった人々が多くいます。たとえば毎日新聞の美術記者であった三田晴夫さんです。しかしその時も私は吉本を支持していましたね。私自身が、サブカルチャーの中で育って来た世代なので、受け入れられたのですね。

その後の、オウム真理教をめぐる問題の時も、私は吉本批判にはまわらなかったです。吉本は麻原彰晃を買いかぶったのですね。吉本という思想家は、それ以外にも多くの間違いをしていますが、しかし思想家とか哲学者は、この間違いを含めて読んでいかないと読めるものではありません。つまり人間ですから、間違いは必ずあるのであって、それを切り分けないで、丸ごとに読まないと読んだとは言えないのです。その意味で思想家を読む事は、全力をかけないと読めないし、時間が非常にかかるものなのです。細部の間違いをあげつらって批判しても、駄目なのです。

私の吉本隆明への失望で決定的だったのは、大塚英志との対談「だいたいで、いいじゃない」でした。これには深く失望しました。

それと吉本の歳をとってからの顔です。

「だいたいで、いいじゃない」というのは、たいした本ではないですが、しかし吉本の本質が、無防備に露呈しているように私には思えました。そして晩年の顔です。一度だけですが、ご人にもお会いしています。

吉本に限らないのですが、美術評論家で読んで来た人でも、歳をとると顔が良くなくなっていく人を見て来ていて、深い失望を覚えて来ています。

歳をとったら、顔に責任を持てというのは、伝統的にも言われて来た事です。

私はしかし、吉本隆明だけではなくて、内村鑑三や、キルケゴールも、フッッサールも、ラカンも読んで来ています。大きいのはフッサールでしょうね。フッサールと、吉本隆明は、私の中では参照される関係です。キリスト教をめぐっては、内村鑑三やキルケゴールと、吉本思想が同様の関係にあります。

吉本隆明に対する批判は、このブログが初めてではありません。すでに極めて不十分ですが、書いているのです。

顔で分析をするという事の意味も、前に書いています。

顔で分析することについては、読者の怒りを何度もかっていて、今までのもブログの炎上を繰り返しています。

それでも顔での分析を繰り返すのは、私には重要な方法であるからです。一人の人間の顔を、絵画を見るように見て、絵画を分析するように言語判定法で分析してみるという作業です。実物の顔でも出来ますが、しかしジーと見つめるのは気まずいので、写真で分析することがほとんどです。ですから写真によって違ってくる事は生じます。

なにに於いても分析結果というのは、場合場合で違います。医療検査で、同じ血液で血液検査をしても、検査する機関で驚くほど結果が変わってしまうという調査がなされていて、その新書版の本を買っています。言語判定法でも、ブレが生じる例は、今までもあります。

私は画家ですので、絵画を分析する事は、重要なのです。その延長での作業で、人の顔を見ます。それが多くの人に取っては、受け入れがたい不信感を呼ぶのは、理解できます。しかし私は画家なので、絵画として、世界を見て、分析をしているのが、このブログなのです。実際、嫌悪のリアクションを何度も浴びているので、骨身に沁みてはいます。

にもかかわらず顔が、私自身の中で浮かんでくるのです。6400次元について考えた時にも、最初にイメージが心に浮かんだのはヘーゲルの顔でした。ヘーゲルは読んで来ていなくて、一度、長谷川宏氏の読書会に出て、喧嘩しています。ここでの喧嘩は顔についてではなくて、聖書を長谷川氏が読んでいなくて、聖書を読んでいないでヘーゲルを翻訳する事についての懐疑でした。

しかしヘーゲルの肖像画が与えてくる不思議な感じは、私の中で染み付いているのです。この顔を何であるのか?

その疑問が6400次元と結びついたのです。

吉本隆明の思想の本質は、瀬越さんがコメントで書いてくださっている部分で言うと、「大衆の原像」に基礎付けるという、瀬越さんが感動する吉本の方法論自体が一番の問題なのです。ここからきちんと論じていくと、それは400字詰め原稿用紙で500枚を超える論文になります。

それを書いたとしても、瀬越さんなり吉本の信者を説得する事はできません。画家の私がその大著の書いたとしても、日本の誰が評価してくれるのでしょうか? 誰も読まない事を私は思い知らされているのです。だったら、正直に顔を指摘してすまそうと、考えるのです。

瀬越さんが書いている大衆の原像についての理論は、その限りでは正しいと思います。問題なのはその正しさなのです。フッサールで言えば、それは第一次生活世界という言葉で語っていて、それへの基礎付けを重視します。その限りでは吉本と同じであると見えます。柄谷行人も私はずいぶん読んで来ていますが、柄谷はフッサールのこの第一次生活世界への基礎づけの重視を批判しています。

私の場合、第一次生活世界への基礎付けは、フッサールを受け継ぎます。しかし、哲学の基礎は、大衆の中には無いのです。平凡な生活に対する反省性に哲学の基礎があるのですが、その事を大衆は選びません。反省という作業が重要でって、それは生活の直接性の外部に出る事です。そのことは人類史をさかのぼれば、東洋でも西洋でも言える事です。しかし大衆は、そのような哲学的な反省は拒絶するのです。

こういう意見の食い違いは、避け得ない事です。この不一致性を、クーンやポール・ファイヤアーベントは、《共約不可能性》と言います。

瀬越さん自身と、意見が違うのは、今に始まった事ではありません。随分むかしからですよね。吉本隆明以外でも、食い違いは、多くあったのです。それこそ、自動車の走らせ方も、違っていましたよね。つまり食い違いは、吉本の評価を超えた人間的な本質のところにあるのですが、しかし吉本に集約してくるのだろうと思います。

吉本をめぐっての対立は、瀬越さんだけでなくて、実に多くの人との離反を生んでいます。それを私は良しとします。

瀬越さんが何度も書いてくださっている事に感謝します。
言語判定法というのは、基本的に絵画という視覚的なものを、言語で見る実践なのです。

つまり視覚的なものを、イメージに還元して見るイメージ判定法ではなくて、言語を介して見る事なのです。その結果が、常識から離反する判断を示すので、多くの人の怒りをかいます。困った事なのですが、しかし、私が何もしなくても、昔から私は他人との関係が上手く行かないのです。10人中8人が信じている事が、私には嘘に見えるのです。

最後に革命について書いてくださいましたが、私は明治維新を革命であったと思います。

その中心を担ったのは、長州藩の下層の人々です。しかしこの下層の蜂起は、実は毛利元就にまでさかのぼって考えないと理解できないものです。つまり言いたいのは歴史的文化的な形成で初めて蜂起する大衆は出現するのです。

もう一つあるのは、上林澄雄の『日本反文化の伝統―流行性集団舞踊狂の発生根拠としての』という著作です。日本の根底に原始的な層があって、この層が、時代の変わり目に集団で狂ったように踊りだすという研究です。「ええじゃないか」という集団行動です。ご指摘の1960年の安保闘争の群衆の出現と、1965年位からの反ベトナム戦争でおきる大衆的なデモの出現も、江戸末期に出現した「ええじゃないか」と同様の原始的な層の出現であったと私は思います。

小泉 純一郎をめぐって、街頭に大衆が大量に出て来た時もまた、「ええじゃないか」であったと、私は思います。

今回の選挙で大阪が地方政党で躍進した事は、日本の革命の動きであると、私は思うのですが、しかし福島原発騒ぎで時間をとられていて、その辺のウオッチングと勉強が不十分です。

福島原発事故は、人類の歴史の中で極めて重要な転換点です。革命を語るとすれば、ここでの人類史的な屈折としてでしょう。フランスやアメリカが全力で日本の福島原発を押さえ込もうとしているのも、この転換の危険が見えるからでしょう。

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誤植の多い人なので、この文章も何度も推敲してはいますが、誤植はあると思います。あったらご指摘ください。あらかじめ謝罪しておきます。




by ヒコジイ (2011-04-13 07:57)  

ヒコジイ

kjr様

コメントありがとうございます。私自身は、日本美術は大切なものなんですが、しかし今の日本の現代美術や現代アートの人々は、日本の古典美術を見ない人が多いのです。

私は一方では、アメリカ現代美術を多く見て来ています。ですからアメリカ美術について、自分の芸術分析を書いていこうと思います。これもまた、常識とはすいぶん違うので、多くの人の批判を浴びるでしょうが、それは良いと思っています。多くの人と同じ意見なら、わざわざ書く必要はないのですから。 
by ヒコジイ (2011-04-13 08:06)  

ヒコジイ

鮎の塩焼き様

コメントありがとうございます。
わたしも、鮎の塩焼きが好きです。

さて、ご指摘の件ですが、《第6次元 自然領域》というのが倒錯すると、《第8次元 信仰領域》になります。この2つの領域はペアになっています。ですので、まあ、ほぼ同じなのですね。倒錯は起きやすいのです。吉本隆明の思想の根幹にあるのは、この《第6次元 自然領域》というものを大衆の生活の中に見て、それへの信仰であると言えると思います。それは同時に敗戦後の日本人全体に言えるのではないでしょうか。国破れて山河あり。敗戦後の日本の中に《第6次元 自然領域》が残ったのです。「国破れて山河あり」と、「国破れて大衆」あり、というのは同位なのです。


by ヒコジイ (2011-04-13 08:14)  

ヒコジイ

 

マニー・ダスカラ様

 



ご指摘ありがとうございます。誤植は今までも非常に多い人です。校正の才能が無いのですね。修正いたしました。 

「理論が破綻している」というご指摘も分かりますが、しかしこのブログで、理論的な文章を書くのは無理なのです。理論的に書きたいと思いますが、それはしかし親鸞の『教行信証』のようなもので、読むのは大変ですよ。

このブログでは、出来るだけ理論的に書くつもりですが、今の若い人々は、私の学生時代のような文体で書けば、誰も読めないですよ。ですから、どうしても中学生に分かるように書いています。そこで書ける事には限界があります。

名前を出すと怒られるので、名前を伏せて書きますが、例えば若冲に絵画がペンキ絵でしかないという事を、分からせるには、画家としての訓練をしないと分からないのです。基本的なデッサンをしてもらって説明して良ければ出来るのです。絵画の理論というのは、画家としてのリテラシーを学んでくれないと、説明をしても素人には分かりません。

そういうこともあってメインは、実際のアメリカ美術と、ルネッサンスの美術の芸術分析を具体的にするつもりです。




negaDEATH(a.k.a 笹山直規)様

コメントありがとうございます。
6400次元に来るまでは、それなりのプロセスがあって、200次元の次は、400次元、これは自分で制作してみて発見したのでしたが、800次元は、原理的に可能なので、KB800 というグループ名にしようかと思っていました。

その後は、自分の内部で、1600次元、3200次元、6400次元に潜っていったのですが、どうしてもそれ以上はあり得ないと確信したので、そこが底だと考えたのです。
 
 この辺の思考は、東日本大震災と福島原発による京都への疎開が、大きく関わっています。半端な所では、決着がつかないものですから、その6400次元を追求するしかないというところに、この情勢が私を追いつめたのですね。
 
 6400次元の顔としてヘーゲル、つづいてカント、ニーチェの顔を見つけて、優れた哲学者の傑出性に触れた気がしていたのですが、そこに東京から疎開に転げ込んで来たのが、北美紀さんだったのです。この人はチャネラーだった人ですが、彼女の顔が、《第8次元》から《6400次元》まであったのです。
 
 さらに京都のタカイシイギャラリーのオープンに行った所、そこで展示してあった安井仲治の写真が、《超次元》から《6400次元》まである、大変に優れた写真家であったのです。
 
 何と言って良いか分かりませんが、見ようとすると見えるようになるというか、6400次元が向こうからやって来てくれるような感じで、出会って来たので、ブログでも踏み切ったのです。

 前にお約束していた喜劇の件、遅れて済みません。覚えているし、途中まで書いているので、もう少し時間をください。

by ヒコジイ (2011-04-14 00:35)  


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