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《第6次元 自然領域》の人は原発ファンダメンタリスト [人間を観察する]

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中部電力社長 水野明久氏

中部電力社長が、各新聞インタビューに応じています。話している事は浜岡原発を停止した事態の中での経営の悪化と、その打開策を多様な内容であって、その報道の仕方は各新聞で違います。

その中で朝日新聞の報道は、焦点を明確にしていて、果たしてこれで良いのか? という疑問はありますが、「福島と同じ事故起きぬ」「原子力の重要性は不変」という見出しが示すように、中部電力社長が《原発ファンダメンタリスト》であることをあからさまに書いています。

人間存在は現実には複雑で、多様であって、そして現実の社会も実に複雑怪奇なのです。だからこそ、単純に物事を把握できる物差しとしての模型的な把握が重要です。

一昨日、昨日と私は、原発事故や3.11を巡る人々の反応から、社会というものの構造を仮説的にとらえることをして来ています。しかし、こういう作業は、もともと私はもっと昔から格闘して来たことです。社会とは何か? そして人間とは何か? 共同体とはどのように変貌し続けて来ているのか? こういう難問と格闘しないでは、実は芸術というものの構造を明らかにする事は出来ないと彦坂尚嘉は考えるのです。

人間は、公的な面と、私的な面の二重性を生きています。
この二重性が全ての複雑な問題と、そして芸術構造を造り出していると、私は考えます。

その中で3種類の人間がいるという単純化を昨日しました。データーに使ったのは原発を推進した東京大学の出身者のインタビュー記事でした。

人間を三種類としてみる見方は、実は昔からあって、代表的なのは阿修羅像が3種類の顔を持つ事です。正面の顔は、《超次元》の顔です。そして左右に《第1次元 社会的理性領域》と《第6次元 自然領域》の顔があります。

この事をふまえて、人間社会は《第6次元 自然領域》の人間と、《第1次元 社会的理性領域》の人間の二重性で出来ている。そして《超次元》の人物を排除することで成立しているとしました。

《第6次元 自然領域》の人間はフロイトの言う快楽原則で生きていると考えられます。
直接的な欲望の充足を求めて生きているこのタイプの人間には、彦坂尚嘉の言語判定法で見る限りは人格はないのです。昆虫的な存在で、本能的な盲目性で作動しているマシーンなのです。今日取り上げた中部電力社長の顔も、彦坂尚嘉の『アートの格付け』で見る限り《第6次元 自然領域》の人物です。この中部電力社長は、福島原発事故を見てもなお、停止した浜岡原発を再開しようとしています。原子力発電の必要性は不変であるという主張なのです。分かりやすくレッテルを貼れば、原発原理主義者なのです。批判に直面している色々な信仰や信念に固執する傾向を意味する語として「原理主義(ファンダメンタリズム)」という言葉が、今日ではつかわれますので、「原発ファンダメンタリスト」というレッテルの貼り方は有り得るのです。彼らは原子力発電が必要で、原発は安全であるという、原発システムを理想化した理念的な原理や原則を重視して、その信仰的とも言える内容を繰り返しています。

つまり、昨日のこのブログの記事から言うと、《第6次元 自然領域》の人は、福島原発事故の見てもなお、この体験を無視して、原発の必要性を主張し続ける「原発ファンダメンタリスト」なのです。

このことを拡大して《第6次元 自然領域》の人々は、原理主義者(ファンダメンタリスト)であると仮説しておきます。

今までも多くの《第6次元 自然領域》の人々を見てきましたが、何かの価値を信じている単純性を持った教条主義者=原理主義者(ファンダメンタリストであると規定する事ができるように思います。

現在の首相の菅直人も、首相の位置に固執し続けるのも、単純な信念を盲目的に一直線に追求するもので、こうした性格は《第6次元 自然領域》の人々に多く見られる事です。そこには反省性は無いし、迷いがありません。盲目的で、単層的で、教条的なのです。こういう《第6次元 自然領域》の人々は、社会の肉体部分とも言うべき大多数を形成しています。

《第6次元 自然領域》の多数者の、この単純さと単層性を、「教条主義者=原理主義者(ファンダメンタリスト」であると認識する事は、重要だと思います。この教条主義性と単純性が、社会の根幹を形成しています。それは鈍くて、頭が悪く、昆虫的なマシーンなのです。人間機械であり、社会機械です。

《第6次元 自然領域》の人々がもつこのような昆虫的機械性を、私は、一方的に否定的に語っているのではないのです。このような盲目的昆虫性が、人間存在の三分の一を形成しているという事実を、事実として認識する事が重要であると言っているのです。

菅直人のような昆虫をどのようにすれば倒せるのか?

昆虫を倒すのは、理屈や知的な言論ではないという事です。言論は、この場合無力です。殺虫剤が必要なのです。そういう仮借なき暴力性しか倒し得ないものが、《第6次元 自然領域》の人々の強さなのです。したがって、織田信長が一向一揆や比叡山を殲滅したような暴力的殺戮によって排除するしか無いのですが、それが出来なければ、共存して行くしか無いのです。暴力の反転としての共存路線。それは福島原発事故と100年200年と共存していくのに似ています。

つまり、《第6次元 自然領域》の人々と、共存をしていくしかないのです。そこでは言論は無意味で無力です。彼らを説得はできません。説得できないし、コミュニケーションの出来ない人々と共存をして行くということが重要なのです。しかも暴力も使えません。その方法がサントームであると思います。ジャック・ラカン晩年のサントームという方法は、この不可能をつなぐ方法なのです。ではこの不可能をつなぐサントームとは何か? 「やさしさ」 です。

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コメント 2

moo

>やさしさ
に共感します。
by moo (2011-06-19 01:30) 

ヒコジイ

moo様

コメントありがとうございます。

《近代》という時代を特徴づけた一面は、共産主義です。マルクスの人格は《第1次元 社会的理性領域》の強いものでした。その為に、人間の暗い面を切り捨てるためにロボトミーの研究を肯定的に考える立場でした。同時に大量虐殺を繰り返したのです。それは人間を虫のように殺すという面で、ナチズムに似ていました。ナチズムもまた国家社会主義であって、社会主義というものの中に有る《第1次元 社会的理性領域》の暴走性は、非常に危険なものでした。

「やさしさ」というものは、この大量虐殺を反転させたものです。殺さないで、共存して行く。共存できない人々と共存する方法が「やさしさ」であると言えます。

情報革命とその結果としての高度情報化社会の出現は、社会そのものを大きく変貌させ得るだろうと、私は思います。権力の根底には暴力があって、オバマがビンラディンを殺したように、殺すという方法や軍事行動を抜きにしては国際関係を形成出来ないということは事実なのですが、このような暴力性を抑制して行く事が重要なのです。

そうするとどうなるのか?
年間5000人近い自動車事故の死者が出続けているとか、3万人を越す自殺者がでるとか、今後福島原発の放射能によって100〜140万人くらいに達するかもしれない死者がでるとかいう、大量の犠牲者の出現する社会が未来の社会なのです。つまり大量殺戮は無いのですが、大量の犠牲者が出現し続ける社会になるのです。

社会を形成して行く中で、犠牲者というものがでるという事です。このことをなくす事ができない。犠牲者抜きには、社会が形成出来ないのです。大量虐殺を中止しても、大量犠牲者は出続けるという事な避け得ないのです。この冷酷な認識の中で「やさしさ」が作動するのです。

放射能による静かな大量の犠牲者が出続ける社会の根底には、絶望が広がります。絶望社会こそが、日本の未来なのです。その中で確信をもって生き抜く事が重要です。

《第6次元 自然領域》の人々が権力を握って作動する社会の中では、犠牲者は生まれ続けるのです。その絶望社会の中を、確信をもって生き抜くことは、有る意味で、自然がもっている自然淘汰のシステムを認める事です。

地球の歴史の中では5回の大絶滅があったと科学者は言います。絶滅そのものは、地球史の中では珍しい事ではありません。日本人が絶滅に向かったとしても、それは珍しい事ではなくて、普通のことです。必要以上に嘆く事は無くて、そのような大量死を歴史的必然として、事実を事実として認める事が重要なのです。そういう覚悟の中で「やさしさ」が生まれます。

菅直人という《第6次元 自然領域》の権力者とか、原発推進派の《第6次元 自然領域》の人々とか、このような人々は権力を握る事で、犠牲者を大量に出し、事態を悪化させるのですが、この事自体を止める事も出来ないとすれば、そのことを「やさしく」受動的に、事実として認める事です。社会が絶望を基底に抱える事は、今後避け得ないのです。
by ヒコジイ (2011-06-19 05:52) 

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