落語/談志・三平・枝雀・ 志ん生と明石家さんま [アート論]

どいけんorDoikenさんっから次のような落語に関するご質問を
いただきました。
お忙しいと思いますが、質問があります。
お笑いと言えば、「落語」もその分野ですけれど、「落語」を芸術という目線
からはどのように判断されるのでしょうか。もしもお時間があれば、是非とも
お聞きしたいです。
例えば立川談志さんの噺は、
人間の空虚性を認めたうえで、その気晴らしとと主張して話すのですから
ローアートなのでしょうか。
by どいけんorDoiken (2011-05-27 19:47)
お笑いと言えば、「落語」もその分野ですけれど、「落語」を芸術という目線
からはどのように判断されるのでしょうか。もしもお時間があれば、是非とも
お聞きしたいです。
例えば立川談志さんの噺は、
人間の空虚性を認めたうえで、その気晴らしとと主張して話すのですから
ローアートなのでしょうか。
by どいけんorDoiken (2011-05-27 19:47)

立川談志 《超1流》〜《第6400次元》までの重層的人格者
落語そのものは、《近代》以前からの伝統芸術なので、ハイアート/ローアートという《近代》の2分法が、機械的には当てはまりません。しかし、今日の芸ですから、無関係というものではありません。つまり落語はむしろハイアートなのです。
つまりいわゆる《近代》のキッチュではないのです。
落語の話も、繰り返しが基本で、伝承芸術として高度な芸になっているのです。江戸の浮世絵と同様に、民衆の娯楽として始まりながら、蓄積をしていって、《超1流》の高度な鑑賞芸術にまで成長してしまったものなのです。《芸術》の成立には、この蓄積性が重要なのです。《芸術》でないもの、例えばデザインは、この蓄積性のないものです。刺身のような、生ものなのです。
笹山さんからのご教示で、松本人志の初期コントを見ましたが、これは刺身ではなくて、《芸術》でありました。これはまた別のブログで書ければと思います。
立川談志
立川談志は、若い時にテレビでは見てはいましたが、いろいろな騒動を繰り返しながら人格的地蓄積を獲得して、最近は非常に高度に成熟した人格的完成をなしとげて、話芸として最高水準性を示しています。凄いものだと思います。
彦坂的に言えば、《原-芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》のすべての芸術概念の梯子があります。
しかも《超次元》から《第6400次元》まであって、最高の話芸のひとつであり、高度なパフォーマンス芸術であると感心するしだいです。
欠けている所を言えば、ハイアートであって、ローアートではない事です。さらには《芸術》ではありますが、デザイン性が同時表示されていない。つまり高級落語の芸です。
立川談志 《超1流》から《第6400次元》まである芸術
林家三平(初代)
林家三平(初代)の芸も、新しさをもった《第6400次元》まである凄いもので、《原-芸術》からの《芸術》の概念梯子も全て持っていて、私は高く評価します。幼いときから、ラジオテレビで良く見ていたものです。
林家三平の場合には、立川談志には無いハイアートとローアートの同時表示が成立しています。さらに《芸術》とデザインの同時表示もされています。後で触れる事ですが、二人称空間と三人称空間も同時表示されていて、そのことが、今日の明石家さんまの話芸につながる先駆性を示しています。
私はこの林家三平の落語こそ、極点的な結節点を示していると思います。実際、伝統的な落語界からは「三平は落語ではない」「異端」「外道」と批判された芸です。《近代》芸術を乗り越えた理想の姿を、この、だらしないように見えて、ある意味では誰も尊敬しないかのような低い芸風に、現代落語の透徹した高さを見るのです。
林家三平 《超1流》から《第6400次元》まである芸術
桂枝雀
桂枝雀は、生前ほとんど知りませんでした。自殺してから知って、その息苦しいまでのエキセントリックな芸に強くひかれます。好き嫌いで言えば、大好きな芸人です。この人も《第6400次元》まであって《芸術》として完璧ですし、ローアートとハイアートの同時表示はあります。
しかし林家三平とは違って《芸術》とデザインの同時表示はありません。そのことが芸をどこか堅くしていると言えます。さらに林家三平にあった二人称と三人称の同時表示は無いので、このことも芸を深刻化していて、自殺に至らざるを得なかったのではないかと思います。
桂枝雀 《超1流》から《第6400次元》まである芸術
古今亭 志ん生
5代目古今亭 志ん生が20世紀を代表する名人であることは、私も同感であります。ハイアートとローアートの同時表示はありますし、さらには《芸術》とデザインの同時表示もあります。この意味で林家三平と同質なのですが、林家三平よりも偉く見えます。それは後で触れるマルティン・ブーバーの言う所の三人称的空間が無くて、二人称的な空間だけでの話芸なので、古典的な成熟した芸術だからです。
古今亭 志ん生 《超1流》から《第6400次元》まである芸術
落語として、どちらが鑑賞芸術として高いかと言えば、もちろん古今亭 志ん生です。古今亭 志ん生と、立川談志や桂枝雀を比較すれば、志ん生の芸の方が上です。
しかし古今亭志ん生と派林家三平を比較すれば、芸術論的には、明石家さんまの先駆者でもある林家三平の達成した地点は、革命的に新しかったのです。それが二人称空間と三人称空間の同時表示の獲得でした。つまり明石家さんまにつながるような三人称空間的な話芸との同時表示は、すでに述べたように林家三平においてだけ獲得されていたのです。
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明石家さんま

《第6次元 自然領域》の性格
狭義の意味での「人格」は無い
さて、問題は談志・三平・枝雀・ 志ん生のような名人落語家と、明石家さんまのような落語出身のピン芸人の話芸は、どこが違うのか? という問題です。
明石家さんま 《第6次元 自然領域》の芸
明石家さんまと、落語の名人の差を彦坂的に説明すれば、マルチン・ブーバーの理論を借りることになります。
ブーバーはユダヤ人でシオニストの哲学者です。ユダヤ神秘主義を秘めた哲学的宗教的な主張を、手短に書いても、多くの人は理解できないでしょう。『孤独と汝』という名著を読んでもらうしかないのです。
が、誤解を恐れずにエッセンスを書けば、人間が外部にとる態度に2つあるというのです。
一つが、三人称的な態度で、よそ事、人ごとという距離をもった眼で、世界を客観的に見る見方です。
科学的な観察の眼であると言っても、おおむね良いと思います。ブーバーの用語では「我、それ」の関係と言います。
明石家さんまの芸は、こうした「我、それ」の三人称空間で展開されていると、彦坂は解釈します。狭義な意味での人格的な深さは無い芸人で、軽く、浅い、デザイン性が信条です。ここには蓄積とか成熟というものはありません。林家三平の芸は、一見するとさんまに似ていて、さんまの先駆者であったのですが、似て非なるものであったと、私は思います。
つまり明石家さんまの話芸は、科学主義的な三人称空間を前提にした芸風なのです。おもしろいのですが、特徴的なのは、浅くて薄いということです。それもあって理解しやすく、観客に教養が無くても消費できるということがあります。
明石家さんまの名言こそが、《第6次元 自然領域》で、
狭義の人格のなさを示しています。
それに対して、落語家の名人の話芸は、「我ー汝」とブーバーが言うところの二人称的な関係空間で展開されています。
「我ー汝」という関係の向こう側には、《永遠の汝》がいると言うのです。この《永遠の汝》というのは、普遍的な他者というものですが、伝統的な言葉で呼べ《神》です。
つまり《永遠の他者》性をもった価値空間の中での芸なのです。ここには人格的な深さがあって、芸風には蓄積性があります。それは同時にうるさくて、不愉快な言説なのです。明石家さんまの名言集と比較して、立川談志のおしゃべりを聞いてみてください。この理屈っぽくて不快な語りこそが、人格の無い明石家さんまには、出来ないものなのです。つまり人格があるというのはうるさくて、邪魔になるものなのです。
立川談志 人格がある人間のうるささ
2011-06-01 05:53
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桂枝雀は異常なまでの研究家であり、首つり自殺を題材にしたネタというのがあって、自殺とされているのは、実はそのネタの練習中に起きたアクシデントではないかとも噂されています。
ネタの練習中に死亡というのは悪い冗談に聞こえますが、笑いと狂気は紙一重で、極限の中に生きて最後まで芸を追求してきた努力の人だと私は思います。
by negaDEATH(a.k.a 笹山直規) (2011-06-01 14:02)
negaDEATH(a.k.a 笹山直規)様
コメントありがとうございます。
ネタの練習中での事故ですか!
されはあり得ますが、危険ですね。
桂枝雀の噺はすごいと思います
by ヒコジイ (2011-06-02 13:22)
彦坂様
早速の分析に感動しておりまして、勉強になっております。本当にありがとうございます。
実は私自身、落語を知ったきっかけは松本人志の放送室というラジオ番組で彼の笑いの技術は落語から学んだと言うことで紹介されていたからです。(negaDEATH様のコメントにある話もラジオで語られていました。)
古典落語も、桂三枝さんの創作落語もおもしろく見ていたのですが、彦坂さんのブログで「お笑い」がテーマの記事が出ていたので芸術と見るとどう判断すれば良いのか分からなかったのでコメントさせて頂きました。
近代芸術の尺度から見れば「落語」自体はむしろハイアートになるのだと理解しました。 そして近代としての落語にはローアートとの同時表示があるのですね。
偶然なのか彦坂さんの紹介なされた噺家さんは皆 《超1流》から《第6400次元》まである芸術ですね。 彼らの芸風は違っても芸術構造の層が同等の深さ、もしくはそれが一流の落語家が限界まで芸を極めた結果なのでしょうか。 その芸の限界点が第6400次元なのかなと思います。
中島らもさんの落語などは今回紹介された落語とはまた別カテゴリーですが。これもおもしろい落語だと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=DhcuPsw42vA
by どいけんorDoiken (2011-06-02 18:47)